幸せは「なる」ものではなく「ある」もの
年のはじめに意気込んで今年はブログ書くぞ!って人が大勢いて、そして春ぐらいになって毎日ちゃんと続いている人っていうのは、年始にそういう目標を立ててない人だったりする。
仰々しく目標とか、やるぞ!って決めて宣言しても、あれ、そういえばだんだんあの人のブログみないなーって。
っていうのは自分のことです。
4月、忙しかった−(言い訳)のですが、子どもたちそれぞれ新しい学年になって落ち着いてくるのがちょうどこのGW辺りなんだろうなと思う。今はとても平和。長男もっと勉強しろーなどと思ったりもするのですが、もう勉強しろと言うのは止めました。
自分だって言われたくないことは人には言わないのです(宿題したかの確認は毎日しているけど。やってなくても無理にはやらせない)
さて、この間の日曜日私は日がな1日庭で過ごした。うちの庭は広い(都内の一軒家としては)。1階の床面積と同じ面積分以上が庭な上に、ちょっとした坂に建ってるので駐車場がグランドレベルでその上が庭スペースなので通行人の目線も気にならない。
引っ越してきた当初は本当にジャングルみたいな庭だったのを、1年半かけてちょっとずつ手入れをして(主に旦那が)すごく居心地のいい場所になってきている。(上の画像は公園です、流石にここまで広くないw)
サンシェードを張った庭の芝生に椅子を出して昼間っから飲みながら読書をする。時々子どもたちがママの様子を見に来ては色々とお話をして、気が済んだらまた自分の遊びに戻っていく。
椅子が疲れたらシートの上にクッションを持ってきてまたゴロゴロ。本当にこれ以上の幸せがあるのだろうか、私はいまなんの過不足もなく幸せの真っ只中にいる、そんな気分にさせてくれるひとときだった。
そして、タイトルのとおり、ああ、いまほんとに幸せであるなあと感じた。
20代の頃はいつもここではないどこかを夢見てばっかりいたような気がするけど、今はそうじゃない。たぶん、これは子供がうまれてからの感覚だけど、今この瞬間がとにかく大事。探し求めていたここではないどこかって、ここにあるやん!ってそういう感じ。
この間20代の若い女の子と話をしていたら、自分探しの真っ最中ですって言っていて、ああ、私もそうだったなあと懐かしくなった。すぐ近くにある些細な物事が私を日々幸せにしてくれているのである。
いつの間にか、、桜もちりまして。
春休みもようやく終わりました。今日は学校行って1時間ぐらいで帰ってきたけど。
来週からやっと通常営業かーー。
と言いつつ、春休みはお母さん(実母)の応援もあって、お仕事も無事に行けました。
ここしばらく、現場をスタッフにお任せして後方支援をしていたのですが、春休み、ママ達は大忙し!ということで今週は撮影ラッシュです。
ただ、撮影楽しい。やっぱり楽しい。ママ達の生の声を聴けるのもとても参考になるし、何より新生児のパワーを目いっぱい補給してかえってから飲むビールのおいしさと言ったら!(そこかい!)
助産師の小山さんとも話していて思うのが、自分自身が「産後」から離れていくと新生児ちゃんや新米ママ達とこれまでと同じように触れ合っているつもりでも、知らず知らずに乖離が起きてくるということ。時代の流れであったり、その時々で育った背景の違いであったり、自分自身の感覚が遠いものになっていっていったり。
この間も、「新生児期って(ママは)寝れてましたか?」ということを聞かれて一瞬、思い出せなくて、「ちょっとまってくださいねーどうやったかなーーーーー。。。あ。寝れませんでした。最初の1カ月寝た記憶ないです」みたいな会話をした。
なので、親子間(ママとおばあちゃん)の間で育児に対する考え方の対峙が起こったりすることは、ほんとに良くあることで、「私の時はこうだった」「私はこれで子供を育てたんだ」という、軋轢がママを悩ますことも時として起こる。
でもね、思うのはどうしたって子供は育つということ。
愛情があれば、悪いようにならないんじゃないかな。
月曜日のちょっとだけホッとできる時間。
気が付けば毎週、週明けにブログを書くようになっている。決めたわけではなく自然と。
土日は、私にとってお休みってあってお休みでない。
子供はいつだって、「ママ、見て!」って言う。
PCなんかは触れないし、スマホも見ないで!って言われてしまう。
ママと一緒がいい!ママ見て!行かないで!って。
なので、平日保育園やら学校に行っているときにしかゆっくりと落ち着いて自分の時間がとれない。土日の方が忙しいのだ。
自分の時間を一番使っていることが、私をあらわす職業なのだとしたら、今は間違いなく主婦やらママ業ということになるのだろうと思う。
だけど、これから100年時代色んな肩書を持って色んな人になれたほうがいいらしい。
ママで主婦でカメラマンで経営者で、もうあと3つぐらい肩書が増えそう。
おもしろいじゃない。やってやろうか。
そんなふうに思えるのが、子供から離れてちょっとホッとする月曜日の午前中だったりするのです。
1案件につき500回繰り返す
ジムキャリーの「イエスマン」という映画を昔見た。昨日の夜、突然思い出して、「すべてにイエスっていったらどうなるんだろう」とちょっと考えてみた。
なんでかって、もうそりゃ毎日子供たちにダメ出しばっかりしてるなあと思ったから。
全肯定でなんでもイエスって言ったらどうなると思う?って自分に質問して、いやいやいや、子供にそれしたら、ただのわがままになるだけやな。とすぐに答えが返ってきた。
私が子供たちにノーと言ってることって、「お菓子はご飯の前に食べない」「歯を磨かないで寝ちゃダメ」「家に帰ったら手を洗らわなきゃだめ」みたいな、そんなことだ。
他にも、部屋を散らかしたら片付ける、とか、脱いだ服は洗濯かごに入れる、とかもうなんか一日小言を言ってる気がする。
さて、「何回言ったらわかるの!」は、果たして何回だと思いますか?
約500回らしいです。とある塾講師の方の本に書いてありました。
500回言って、ようやくわかるそうです。
おかんの小言、あらゆる事柄に500回繰り返さないとわかってくれないのか。。。ちょっと遠い目をしてしまう。
でもね、長男は「家に帰ったら手を洗う」を今では何も言わないでできるようになった。次男はまだできない。
あれ、ちゃんとできるようになってるじゃん。ちっちゃなことだけど、500回ぐらい言った甲斐があったんじゃない?
母の小言はまだまだ永遠につづきそうですよ。
おとうさんのコート
私の父は2000年の大晦日の夜に、新世紀の幕開けを待たずに息を引き取った。あれから18年。父か着ていたコートをずっと持っている。晩年(と言うには若すぎるけど)ずっと着ていたから、多分もう25年ぐらい昔のコートになるんじゃないだろうか。
結婚する時に私が引き取ったそのコートがずっとタンスの奥にしまってあった。
結婚してから引っ越し3回。そのたびに新居に持ってきては、時々出して、うーんと悩んでまたしまう。それを繰り返していたのだけれど、この度いよいよその心の引っかかりを解消することにした。
お直しに出して私が着ることにしたのだ。ネットで幾つかリフォームやリメイクをしているところを探し、最終的に前々からずっと気になってたnucafeさんにお願いした。
11月の中頃、次男と一緒にコートを持ってお店に行った。コートが随分古いものであること、男物であることなど伝えて、もし生地自体がいたんでたら諦めます、という事も伝えたあとで、直せると思います、というお返事をもらった。
そして、待つこと約2ヶ月半。先日コートが届いた。手書きのお手紙と一緒に。
手紙には、『生地は今に無いような、
届いた日に早速着て出かけたが、本当にとっても温かい。生地も傷んでないしまだまだ着れるという。ボタンの合わせが紳士用なので、ちょっと慣れないけれどシルエットも無事に女性用に変身し、違和感なく着られる。丁寧に直してもらえたことと、これからも大事に来てくださいという旨のお手紙をいただけたことも、本当に嬉しかった。
東京に大寒波襲来していた時に、なんとも嬉しいお届け物が来てくれた。お陰で私はほっかほかである。
不安の正体ってなんだろう
この間、イベントに行ってきた。仕事と子育ての両立を考える、というようなテーマだったので、さてどんな話が聞けるのかな?と。
ちょっと私は対象年齢から外れていたのか、産前産後の話に集中していたので「ああ、そうだったよね。でも私そこはもう過ぎちゃったんだよね」と思いながら聞いていた。
ただ、話を聞いてる中で思ったのが「不安」ということについて。
育休を取った男性からも、産前産後の女性からも「不安」という言葉がよく出てきていた。
そもそも不安ってなんだろうとふと考えてみた。
今現在の私といえばもう、ありとあらゆることが不安である。
子供のこと、家のこと、お金のこと、仕事のこと、不安オバケがそこここにいて、蹴散らしても後から後から湧いてくる。
逆に不安じゃなかった頃っていつ?と思い返すと、いろんなものに守られていた頃、っていう答えになった。
大人になって、自立して、仕事して、子供が誕生して、というようにだんだんと自分自身で選んで関わるものが多く大きくなって来ると、キャリアを積んだ人であれば自分自身のキャリアに、出産した人であれば自分の子供に、すごい責任がかかってくるのですよね。
生まれたての赤ちゃんに対して、かわいいって気持ちよりも「死なせたらどうしよう」という不安のほうが大きくて、呼吸の確認頻繁にしているという話は共感できるひとも多いんじゃないかと思う。
そう、不安の正体って「失ったらどうしよう」みたいなところなんじゃないかなあ、って思った。
人生100年時代のこの世で、まだ折り返し地点にも立っていない何も持たない若造が何をいっておるんだ、と先輩たちから言われそうです。
失う恐怖よりも、たくさんのものを得る喜びのほうがずっと大きいといいだけなのですよね